左側は皇居東御苑に通じる桔梗門。この場所は東京マラソンのゴール地点だ。マラソンの時は多くの観戦者やランナー、マスコミがいた光景とは違うので、懐かしさがあまり感じられない。

日比谷通りを少し進むと左側には和田倉門がある。和田倉門は仙台藩主伊達政宗などにより1620年に築造された。江戸時代は蔵の御門と呼ばれ、一般人は通れず、武士だけが通ることが許された門である。

和田倉橋の先にあるのが和田倉門だが、現在は門跡として石垣だけが残されている。江戸時代以前、和田倉親水公園のあたりは、漁業が盛んな東京湾に面した場所だった。江戸時代初期に埋め立てられ、江戸城へ生活物資を運ぶため、倉庫が置かれるなど、海上輸送の拠点であった。
門を抜けると現在は、噴水公園として開放され、訪れた人たちの休憩の場となっている。噴水の先に見えるのは巽櫓。石垣を昇ってくる的を真上から攻撃したり、小さな出窓から矢や鉄砲を放つために工夫して造られた櫓。また、遠くに櫓が見えるのが、富士見櫓で、1657年の大火で消失した2年後に再建されたもので、江戸城の本丸の中で現存する貴重な遺構である。現在一般の人が近くで見学できる櫓は、巽櫓だけのようだ。

日比谷通りに戻り走る。次の交差点は永代通り。

大手町駅。東京メトロ半蔵門線、千代田線、丸の内線、東西線の駅。都営地下鉄は三田線の駅。

丸の内線はこんな電車。
左に行くと大手門。皇居東御苑に入れる江戸城のk、、正門がある。
皇居東御苑は、旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて皇居附属庭園として整備されたもので、昭和43年(1968)から公開されています。(宮内庁ホームページより)

入園無料ということなので、行ってみる。手荷物検査があるが、スマホとipadしか持っていないためスルーだったが、中では走らないでと言われた。やはりランナーに見えるか。

大手門は江戸城の正門。諸大名がこの門から入城していた。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入してくる敵を阻止や、攻撃しやすい形状になっている。大きい方の門は1945年空襲により消失したが、1967年に復元された。

同心番所。番所とは警備詰所のことで江戸城にあった番所のうち百人番所、大番所、同心番所が残っている。ここは同心と呼ばれる武士が詰めており、入城してくる者たちを監視していた。屋根瓦には皇室の菊の紋や徳川家の葵の紋が見られる。

百人番所。江戸城本丸への侵入を厳重に守る警備詰所。甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組という鉄砲百人組が勤務していた。


大番所は大手中之門の内側に設けられていた警備詰所。ここには位の高い武士が勤務していた。

中を進んでいくと、緑多い広場が出現。木陰で休憩する人が多く見られる。

天守台。徳川家康の入城以来、江戸城は3回天守が建てられた。最も規模が大きかった寛永度天守は、地上からの高さが58mあった。この天守台は名磨の大火により消失したあと、天守再建を目指したが、幕府内で天守不要との結論で天守が建てられないままになった。

天守台からの東京丸の内や大手町ビルの風景。

この広場のあたりが本丸のあった場所だ。

皇居東御苑の案内図。訪れる際の参考にご覧ください。

汐見坂。徳川家康による江戸城築城の頃はこの場所の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから汐見坂の名がついたと言われている。

坂を降りると木々が生い茂る、緑豊かな光景が広がるのは二の丸雑木林。

きれいな花が咲き誇る。

諏訪の茶屋。1912年に皇居内の吹上地区に建てられ、その場所に江戸時代に諏訪社があったことから諏訪の茶屋と言う名が付けられた。

二の丸庭園。九代将軍家重の時代の庭園図面をもとに池の周囲を一周して庭園を観賞できる、池泉回遊式庭園として復元された日本庭園。