大屋駅は上田駅から2つ目の駅だ。
▼大屋駅。しなの鉄道の新型車両に乗って到着。

駅前はビジネスホテルもあり、比較的建物が多いがさびれている。

宿場町が近く建物が旅籠のような名残りがある町並み。

▼大屋駅の次の田中駅。

前方は上田駅方面。

こちらは小諸駅方面。

田中駅に入線する115系佐久地域星空トレインの動画です。
駅前はタクシーやバス乗り場があるが商店街はない。


▼千曲川温泉ゆぅふるtanaka。駅前にある日帰り入浴施設、入館料は510円と安い。

▼海野宿。田中駅から徒歩20分北国街道に築かれた宿場町。

海野宿入り口前に鎮座する白鳥神社は、日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社。海野氏、真田氏の守護神として祀られた神社。合格祈願・縁結び・病気治癒・長寿などにご利益があると伝えられている。

創建ははっきりした年数が不明だが、奈良時代から平安時代と推測している。御祭神は日本武尊・貞元親王・善淵王・海野広道公の四柱を祀っている。白鳥神社は海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けることとなり、真田家が松代に領地を移動し、安政5年海野神社と改称。その後明治13年、郷社となり白鳥神社と改称した。

日本武尊は東征後ここ海野を訪れた際に、この地が農作物が良くできる土地であることに感心し、あの海まで土地になればさらに豊かになると言い、この話から海野と称されると伝えられている。

日本武尊が没すると白鳥が現れ、東国へ飛び去る際には、この地に舞い降りることから白鳥神社が建てられたと伝えられている。

白鳥神社に隣接する、縁結びにご利益がある媒地蔵尊。

加賀国のお姫様が縁に恵まれず、ここでお参りしたところ結婚ができたということから、縁結びのお地蔵様として信仰されている。

白鳥神社に守られている海野宿は、1625年に北国街道の宿駅として開設された。北国街道は、中山道と、北陸道を結んだ主要な街道で、佐渡で採れた金の輸送や、諸大名が参勤交代で通った道で、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。この地域の交通の要衝であった海野宿は、賑わいを呈した。明治時代に入り宿場の機能は失われてきたが、海野は、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕・蚕種業で復興した。この養蚕最盛期の明治・大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅篭造りと良く調和して、現在まで残されてきた。

海野宿の成立は1625年。昭和61年に「日本の道百選」。続いて昭和62年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定をうけた。海野宿の入り口付近には、案内板が設置されている。

海野は戦国の武将真田氏の祖滋野一族である海野氏のふるさと。町並みは、江戸時代の竹籠屋づくりや茅葺き屋根。旅籠屋づくりで良く見られる2階を広い部屋にと、工夫をこらした出桁造りや、裕福な家で見られる本うだつや、2階で見られる長短2本づつ、交互に組み込まれた海野格子という美しい形をした出格子がある。明治以降では、蚕室つくりの建物で屋根の上に気抜きという小屋根が乗る特徴ある建物。

ここに流れる表の川とよばれる水路は、旅人が足を洗ったり馬に水を与えたり、住人が洗濯するために欠かせない生活用水だ。それぞれの家の前には洗い場がある。

デザインが特徴的で美しい海野格子。

江戸時代と明治以降につくられた建物の調和が美しい。画像中央の屋根が袖うだつ。

海野宿の全長は650m。東側には田中駅。西側に行くと大屋駅だ。

海野宿の情報はこちら🔽

▼田中駅の次の滋野駅。

駅は無人駅。駅の名の由来は滋野氏から来た駅名だろうか。調べてみると次のような記述がある。武家滋野氏の末裔がこの地に定着したことからついた地名。滋野氏はのちに海野、禰津、望月の三氏に分かれるが、真田氏は海野氏の一族にあたる。

ホームに設置されている強豪力士雷電の里、滋野の立て看板。江戸時代に活躍した東御市滋野出身の雷電為右衛門は、1795年に大関に昇進した。勝率は9割6分2厘という驚異的な強さであったと伝えられている。

駅員を配置するほどの乗客がいないということか。しかし上下線で間もなく列車が来るということで、利用客がちらほらと改札から流れてくる。
しなの鉄道の特徴赤ベース色の115系列車。動画をご覧ください。