宿場町探訪② 北国街道海野宿・追分宿を歩く

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こんにちはブログ管理者アッキーです。訪問ありがとうございます\(^o^)/

今回は宿場町探訪シリーズ第2弾。しなの鉄道沿線にある北国街道の海野宿と、中山道と北国街道の分岐点にある追分宿の紹介です。

伝統的な建造物が並ぶ静かな佇まいの海野宿

1.中山道と北国街道を結ぶ主要な宿場

北国街道にある海野宿。北国街道は江戸時代に街道が発展した、中山道と北陸道を結ぶ商人が行き来した主要な宿場町。江戸から善光寺への参拝客も利用していた。ここ海野宿も訪ねましたので紹介します。

海野宿。戦国の名将真田氏の祖、滋野氏・海野氏のふるさと。歴史情緒があふれる町並み。

海野宿入り口前に鎮座する白鳥神社は、日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社。海野氏、真田氏の守護神として祀られた神社。合格祈願・縁結び・病気治癒・長寿などにご利益があると伝えられている。

白鳥神社。日本武尊の魂が白鳥となって降り立った地に、神祠を建てたのが始まりと言われる神社。

白鳥神社のシンボル、クスノキは樹齢800年、周囲7.6m、標高30mという高い巨木だ。

日本武尊が没すると白鳥が現れ、東国へ飛び去る際には、この地に舞い降りることから白鳥神社が建てられたと伝えられている。

日本武尊は東征後ここ海野を訪れた際に、この地が農作物が良くできる土地であることに感心し、あの海まで土地になればさらに豊かになると言い、この話から海野と称される。

媒地蔵尊。白鳥神社に隣接する、縁結びにご利益があるといわれている。

加賀国のお姫様が縁に恵まれず、ここでお参りしたところ結婚ができたということから、縁結びのお地蔵様として信仰されている。

白鳥神社に守られている海野宿は、1625年に北国街道の宿駅として開設された。北国街道は、中山道と、北陸道を結んだ主要な街道で、佐渡で採れた金の輸送や、諸大名が参勤交代で通った道で、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。この地域の交通の要衝であった海野宿は、賑わいを呈した。

明治時代に入り宿場の機能は失われてきたが、海野は、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕・蚕種業で復興した。この養蚕最盛期の明治・大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅篭造りと良く調和して、現在まで残されてきた。海野宿の入り口付近には、案内板が設置されている。

海野宿の成立は1625年。昭和61年に「日本の道百選」。続いて昭和62年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定をうけた。

背景は浅間山を望む。海野宿を歩いてみる。2月まで冬季は休業のためか観光客がひとりもいない。

海野は戦国の武将真田氏の祖滋野一族である海野氏のふるさと。町並みは、江戸時代の竹籠屋づくりや茅葺き屋根。旅籠屋づくりで良く見られる2階を広い部屋にと、工夫をこらした出桁造りや、裕福な家で見られる本うだつや、2階で見られる長短2本づつ、交互に組み込まれた海野格子という美しい形をした出格子がある。明治以降では、蚕室つくりの建物で屋根の上に気抜きという小屋根が乗る特徴ある建物。

ここに流れる表の川とよばれる水路は、旅人が足を洗ったり馬に水を与えたり、住人が洗濯するために欠かせない生活用水だ。それぞれの家の前には洗い場がある。

右の建物の屋根に設けられている装飾が袖うだつ。

屋根の上に屋根がある気抜け。

海野格子。2階部分の格子が長短2本ずつ交互に組み合わせた、この地域特有の美しいデザイン。

出桁造り。梁や腕木を側注筋より外に突き出してその先端に桁を出した構造。2階を広い部屋にと、工夫をこらした建築様式。

袖うだつ。画像中央の屋根に設けられている。江戸時代と明治以降につくられた建物の調和が美しい

宿場の表札がかかっているが、普通の暮らしをしている住民もいる。

こちらは今も宿泊所として営業しているが、一棟貸宿の貸切りとして宿泊できるようだ。

福嶋屋。かつて宿泊所であった宿も、現在は飲食店などの店舗として使われている。二八そばやくるみおはぎが食べられる。

うんのわ。お休み処と観光案内所となっている。

カフェや蕎麦屋、資料館や展示館などで使用されている建物が多い。

▼懐かしの玩具展示館。入館料大人200円。

海野宿資料館。入館料大人200円。

空家となっている建物や人が住んでいる気配がない建物も多い。東側には田中駅。西側に行くと大屋駅だ。

海野宿の全長は650m。西側から見た海野宿の光景。それにしてもここで暮らしている人はいないのだろうか。全く人気がない。店舗として開店している土産店や飲食店がほとんどなく、住居中心とした地域なのかもしれない。

真田氏一族ゆかりの海野宿。静かな佇まいな町並みで、蚕室造りや海野格子など、工夫されて建設された伝統的建物の家並みは、芸術的視点で見られ楽しい。

海野宿の観光情報はこちらのサイトから🔽

2.海野宿へのアクセス

しなの鉄道田中駅から徒歩約20分

JR北陸新幹線・しなの鉄道

乗車券3,340円

特急券2,850円

上信越自動車道東部湯の丸ICから約15分。

海野宿にはしなの鉄道が便利。

この踏切りは田中駅、大屋駅間です。

しなの鉄道の動画をご覧ください。

標高1,000メートルの高所の追分宿

1.中山道と北国街道の分岐点に位置した要衝の地

同じしなの鉄道沿線にある宿場町の追分宿は、浅間根越の三宿(追分·沓掛·軽井沢)の一つで、中山道と北国街道の分岐点に位置し、官道時代からの交通の要衝の地であった。

追分宿。中山道69次のうち江戸から数えて20番目の宿場。

北国街道と中山道の分岐点には「追分の分去れ」には今も7つの石造物が残されている。当時旅人同士が親しくなり、行き先が分かれ名残惜しむことからこの名がついたと言われている。「さらしなは右 みよし野は左にて 月と花とを 追分の宿」と詠まれた、道しるべの碑がある。

当時は40戸前後の宿であったが、江戸時代に中山道の大改修が行われ発展した。人馬の往来が多く江戸時代前期には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒などの宿場で、宿場町としては、他とは比較できないほどの整備されたものであった。

しかし当時の建物の大部分は解体され消滅し、現在は枡形の茶屋など数件を残し、かつての宿場町の面影が、わずかに感じられる程度になった。

枡形の茶屋。宿場の西端部には枡形といって、宿内の防衛のため見通しがきかないよう鍵の手に曲げ石垣上の土手で囲ったものがあり、この枡形内にある茶屋のことをいう。現在追分の西入口につがる屋という屋号を持つ、茶屋の当時のまま残る、数少ない建物のうちのひとつ。

蔦屋。江戸時代の現存する数少ない建物のうちのひとつ。町の有形文化財。

数少ない建物の3軒目は「ままごと屋」という雑貨店をして残っているようだが、営業しているかわからない。

土産店や飲食店など並んでなく、大規模な宿場町とした保存地区ではないため、この通りを散策している人はあまりいなかった。

追分宿郷土館への入口。

旅籠に真似てつくられた建物で宿場の雰囲気を出すため、内外装とも木造風の出桁造りにしている。追分宿や軽井沢町西地区の資料を集め、宿の構造や歴史などへの理解を深めてもらうように保存し、1985年に開館した。追分地区の資料を中心に、縄文時代から現代までに歴史を知ることができる。2階の企画展示室では追分に関係する古書·古文書、旅籠や茶屋の模型など企画展に合わせて展示されている。

追分宿郷土館。主な収蔵品:町指定文化財の大般若経約600巻、追分宿本陣文書・和書、追分宿の宿場と旅籠の資料を中心に、軽井沢西地区の資料。追分に関係した文化人の資料など。

2.追分宿へのアクセス

しなの鉄道信濃追分駅から徒歩約15分

JR北陸新幹線・しなの鉄道

乗車券2,880円

特急券2,850円

上信越自動車道碓氷軽井沢ICから約30分。

信濃追分駅。標高約1,000mの高所にあり、かつては特急列車が通る日本最高所駅として知られている。

駅員が不在で無人駅。乗車する場合は乗車証を機械から取り下車駅で精算する。

跨線橋から眺めた軽井沢駅方面の風景。高原の駅らしく緑が多く空気が良く清々しい。

▼湘南カラー115系電車。信濃追分駅近くの踏切で撮影。

宿場町探訪の過去記事です。

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